私が先生を辞めた5つの理由【教育への情熱はまだまだあるのに】

わたしは、子どもの頃から学校が好きでした。
でも、先生には打ち解けなかったです。
いい先生もいたけど、なかなか近づいて話をしたり、身体をぶつけて遊んだりすることはできませんでした。
そういう時代だったのかもしれないし、先生との距離感を感じていたからかもしれません。
両親ともそんな感じでしたし、近所の大人に対しても何だか意味のない警戒感を持っていたような気がします。

職業については、何も考えていませんでしたが、自分の父親の仕事(会社員)と学校の先生を比べて、先生の方が高級な感じがしたから先生になりたいと思ったのではないかな。
嫌だった先生を思い浮かべて、
「自分はそうならない。」
「こんな先生になりたい。」
という理想がふくらんでいったのだと思います。

先生になるまで

高校時代(15~18歳)

うちは貧しかったので、中学でたら働くものと思っていました。
先生にはなりたいと思っていましたが、経済的に無理と思っていましたから。
運よく、市内に初めての高校ができることになって、その新設校に行きました。
学年3クラスの小さな学校です。

卒業するまでに、20人くらいは辞めていきました。
退学になったやつもいるし、自分から嫌になった子もいました。
そんな学校ですから、分数のたし算ができなかったり、英語の単語を知らなかったりする友だちもいました。
でも、クルマやバイクのことなら知っていたり、歴史にやたら詳しかったりするんです。
人としては、上等の部類ですね。
人柄は最高です。
上の学校に行くほど、腹黒いやつが増えていくような気がします。
もっと優秀な大学なんかに行ったら、苦痛ですね。
写真はエール大学

浪人時代(18~20歳)

父親はメンツもあったのか、
「国立大学なら行かせてやる。」
と、とんでもないハードルを設定しました。

本格的に受験勉強をしはじめたのは3年の時ですから、ずいぶんスロースターターですね。
おかげで、現役の時には、見事落ちました
国立大を単願で受けるなんて、狂気の沙汰でしょう。

次の年から、共通一次試験が導入され、科目が増えました。
1科目だけだって、日本史を選んだら、大変な勉強をしないといけません。
国語は、現代国語、古典、漢文。
社会は、地理、日本史、世界史、政治経済、倫理社会から2科目を選択。
理科は、生物、化学、地学、物理の中から2科目。
数学は、数Ⅰ。
英語は、ひとつですが、この共通一次の英語の問題は、ものすごく問題数が多くて、じっくり考えるタイプの人では、追いつきません。
全て終わらないうちに90分たってしまいます。今のようにヒアリングはありませんでしたが、全部できないで、泣きそうになっている女の子やマークシートの場所をずらして記入して、焦って塗りなおしている人もいました。
この年は、社会では日本史と、世界史。理科では生物と化学を選択しました。
これも狂気の沙汰。
普通の人は、内容の少ない地学や、倫理社会を選ぶのが常識です。
でもこれがのちに役立っていくんです。
もはや、どの教科も満遍なくできるパーフェクトマンになっていくのですから。

結局この共通一次テストで足切りこそされないものの、ある程度の点を取らないと2次試験で頑張ってもなかなか難しかったようです。
ましてや、2次試験は数学2Bと現代国語の2教科でしたから、辛かったです。

予備校には行かず、宅浪でした。
共通一次元年も受験に失敗。
そして、2浪に突入しました。
さすがに、母は、
「もうやめて働きなさい。」
といいました。当然ですよね。ただのごくつぶしですから。

結局、「予備校に行って勉強しよう。」と思い立って4月から5月まで、アルバイトをします。
ボトルカーに乗って、ジュースを小売店に卸したり、自動販売機に補充したりするあれです。
予備校代を稼いで6月に予備校に入りました。
そんな時に後から入るやつなんかいないので、友だちもいませんし、できません。
まあ、遊びに行っているわけじゃないので、丁度良かったですけど。

今年受からなかったら、自転車屋に丁稚奉公。
または、カエル取り名人に弟子入り。
と考えていました。
根が楽天的なのか図太いのか、ほとんど病むことなく過ごせました。

予備校は、神田にありましたが、地下鉄千代田線で通っていたので、その界隈の店はのぞき見。
当時、インベーダーゲームが流行していて、大の大人が百円をガラステーブルの上に積んで夢中になっていましたね。
今はスキーの販売店が、神田に軒を連ねていますが、その当時は、そこがゲーセンでした。
自分も、受験勉強の憂さ晴らしに、何度か行きました。
神田には、古書店がたくさんあるので、そこにも毎日のように通って、、、。
交差点の角に大きい本屋がありました。
書泉ブックマートという本屋です。
そこにも毎日のように出かけて、学参や小説を立ち読みしていました。

神田には、明治大学があって、学生がうようよいました。
その通りを、長い髪の青白い浪人生の自分が歩いて、自由な空気を吸ったのです。
赤いタウチェのデイパックを背負って、髪をゴムで縛って、、、。

神田には、山用品の店もありました。
そこで見たフレームザックやケルティーのデイパックが欲しくて欲しくて、、、。
冬に近くなると、スキーやウエアが店頭に飾られ、大学生のお姉ちゃんたち(とは言っても、自分より年下かも)が、キャピキャピしながらカラフルなスキーウエアを選んだりするのを横目に見ながら、自分はひたすら勉強です。
まるで、修行僧のように。

感が出はタイプライター屋さんがあって、そこでオリベッティ―のタイプライターを買いました。
レッテラ32という機種。
そのころは、まだパソコンが一般的ではなく、ワープロの時代でした。

大学時代(20~25歳)

前置きが長くなってしまいましたが、翌3月にやっと合格できました。
共通一次試験の教科を日本史と倫理社会にしたからでしょうか。
三度目の正直とはよく言ったものです。
石の上にも三年とも言いますが、、、。
一緒の予備校で、同じ大学を受けた女の子は、落ちてしまいました。
結果が発表される日、最寄り駅でばったり会いましたが、その子はもう結果を見てからの帰りで、わたしの顔を見るなり、走って階段を駆け上がっていきました。

その子とは、二次試験の後、喫茶店でお茶しました。
八重歯のかわいい子でした。
そのときに、オフコースの「さよなら」が、流れていたっけ。
彼女はその曲を口ずさみながら、
「この曲すきなんです。」
と言いました。
自分は、
「あなたが、好きなんです。」
と言われたらいいなあなんて、妄想していました。

その子も教員志望でしたが、残念です。
何年か後、近くの駅で、OL姿の彼女を見かけました。
何だか悪くて、声をかけられませんでしたね。

そうして、ある国立大の教育学部初等教育課程に、滑り込むことができたのですが、、、。
初等教育課程には、教科の選択があり、出願の時に希望を書いたのでした。
自分の希望は、図工と体育と音楽って書いたと思います。
その希望と、受験の成績と、高校の内申所の成績を考慮して決められると思いますが、決まった教科がなんと「音楽」。
うれしいやら悲しいやら、複雑な気分でした。

だって、ピアノなんて習ったことがないし、歌も歌えない、楽器も出来ない。
入学してから、卒業のことについて聞くと唖然としました。
論文が普通ですが、音楽専科は「卒業演奏」
音楽の専門家(とは言ってもプロになれなかった人たちですから気は楽ですが)が、何人も見ている中で、曲を弾いたり歌ったりしなくてはいけないんです。

二年間は、専門の授業がほとんどないので、音楽漬けではなかったものの、必修の音楽教育の授業では、音楽先週だからといって、むちゃぶりされ、みんなの前で「春の小川」を弾いて歌わされたりしました。
その助教は、みんなに煙たがられている人で、鼻濁音で歌うことを指導したかったようです。
「はるのおがわ」の「が」を鼻濁音で歌うというものです。

専門科目は主に3年から始まります。
もうこのころは卒業に向けて、楽器を習いに週1回、目白まで通いました。
その後、渋谷に移ったので、そちらに。
習い始めたのは「リコーダー」です。
古典楽器センター(ギタルラ社)という所でした。
学期も、まずは初級のものを購入。
ヤマハの木製リコーダー(ボックスウッド)
卒業前には、もう少しいいモデルを買いました。

何とか練習して、卒業演奏は合格しましたが、教員採用試験に合格しなかったために、2単位だけ残して留年。
結局大学も5年間、みっちり勉強させてもらいました
だから現役の人より3年も多く勉強したことになります。
教員は年齢で給料が決まるので、初任給は結構高かったですよ。

初任時代(25~28歳)

そんなこんなで、教員になった私ですが、はじめの赴任校は「養護学校」でした。
その当時、児童の減少と、教員採用の無計画さのおかげで、県での新採用は小学校枠で100人。
ものすごい狭き門です。
この2年前くらいは、受ければみな受かる時代だったことを考えると、隔世の感がします。

養護学校では教育の本質を見ました。
とくに「運動会」では、見ているこちらは、児童生徒の懸命な姿に涙を我慢できなくなります
健常児の小学校に異動した時に、子どもたちが真剣にできないのが嫌でたまりませんでした。
何でもできる身体と頭を貰って生まれたのに、、、。
残念に思いました。

先生を辞めた理由

養護学校を3年間。小学校教員を27年間。
ちょうど30年勤めて、早期退職しました。
教員の仕事に情熱はありました。
しかし何かが違う感じがしていました。

理由①時代が変わったこと

初任の頃から小学校の教壇(昔は段があった)に立つと、胸がドキドキしました。
何を話そうか、今日はどんな子がおもしろいことをしてくれるか等々。
全校集会などで、体育館で何百人の児童の前に立っても、やはりドキドキでした。
緊張からではありません。
うれしくて。
初任の始業式には4月だというのに、雪が降りました。
「雪が大好きです。バナナも。」
という挨拶をしました。
始業式に雪なんて、嫌なことかもしれませんが、発想を転換すれば、これほど思い出に残るものはありません。

まず保護者が変わったと思います。
初任の頃は先生様のような待遇でしたが、時代が進むにしたがって、保護者に気を遣うあまり何も言えないような雰囲気になっていました。
わたしは、ずけずけと言ってしまいますが、管理職に釘を刺されます。

先生たちも、変わりました。
小粒でお利口さんな先生しかいなくなりました。
型破りの人は、なかなか採用されないんでしょうか。
昔は、教室のだるまストーブでパンを焼いたり、寒い日は牛乳を温めてくれたりする先生もいました。
お楽しみの会を開いたり、外で遊ばせてくれる人も少なくありませんでした。
この頃は、授業時数がどうの、他のクラスとの足並みがこうの、、、。
やたらと規制がかかります。
自分の理想とする取り組みができにくくなっている事は、まぎれもない事実です。

食中毒(O-157)の問題が起きてからは、家庭科の調理実習以外は食べ物を扱ってはいけないとのお触れも出ました。
学級会で、「お店屋さんをして、1年生を招待しよう。」
などと話し合うことも出来なくなってしまいました。
他のクラスと足並みを揃えるためでしょう。
クレームが来ちゃうんでしょうね。

子どもたちも変わりました。
ゲームやテレビに夢中で、ギャングエイジと言われる9歳前後に、群れを成して遊ばなくなってしまいました。
これが後にとても大切な素養になるのに、なかなかわかってもらえません。
良く宿題に「友だちと遊ぶ」というのを出しましたが、「友だちと外で遊ぶ」に変えました。
どんどん子どもが弱くなってしまっているような気がします。
習い事にも問題がありそうです。

理由②息子が亡くなったこと

10年前に、息子が亡くなりました。
自殺でした。
教え子には尽力していましたが、たいていの先生は自分の子には手が回らないんです。
運動会や授業参観にも行ったことがありませんでした。
たいてい重なったりするので、いけない事が多かったのですが、今考えるともう少し手をかけ、声をかけてあげればよかったかなと思います。後悔しても遅いんですが。

これで、自分は教える立場としては失格だと思いました。
自尊感情を育てさせることができなかったこと。
自分の子でさえのびのびと育てることができなかったという自責の念
このころから、やめようと考え始めたのです。

理由③違った世界を見たかった

先生しかやったことがないので、他の仕事もやってみたかったです。
でもそんなに甘くないですね。
先生はつぶしが効きません。
でも何かを作っていきたいと思っています。
版画・陶芸・金工・鍛冶・工芸・木工など、いろんな分野に挑戦したい

理由④お金が必要だったこと

いろんな問題で、お金が必要になりました。
償還といって、早めに退職すると、退職金がアップします。
この退職金で、住宅ローンを解消しました。
でも他の借金が残ってしまいました。

理由⑤消費生活に飽き飽きした

稼いでもどんどん出費がかさむ生活って、おかしいですよね。
誰かに操られているとしか思えません。
どんどん新しいものを買ったり、便利を追及したり、、、。
楽して儲けるのが正しいことのように言う人もいます。
お金がないのが貧しいことだと思っている人もいます。
いくら物を買っても、幸せにはなれないのです。
これは経験からわかります。
どんなに贅沢なものを食べても、満足できないようになってしまうのはとても恐ろしいことです。
そんな消費生活から、抜け出したかったというのもあります。
消費生活からセミリタイヤする。
そう思いました。
だから不自由でも、今は時間的に自由だし。
何をやってもいいし。
豪華なものを食べなくても、おにぎりとお茶で、十分幸せを感じられます。
いいクルマに乗りたいと以前は思っていましたが、今はそれほどではなくなりました。
古いものを直して使ったり、電気無しに、オフグリッド生活をしたいと思うのは、自然の成り行きだと思います。

そう感じている人たちの羅針盤の役割を担えれば、幸せだと思っています。
もちろん無償で。


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私が先生を辞めた5つの理由【教育への情熱はまだまだあるのに】” に対して2件のコメントがあります。

  1. match より:

    もう一度、教育の仕事をするなら、自分の理想とする学校をつくりたい。
    普通の学校では教えてくれない、大切なことをカリキュラムに入れます。
    税のこと、働くということ、職業の選択のこと、恋愛のこと、SEXのこと、身を守ること、など。でも、思いがあってもかないません、お金があってもかないません。賛同するスタッフと、熱意とが必要ですね。

  2. BLACK EYE より:

    「人」に出会う事が「人生」であって、ライブでリアルな教育が…フィクションをノンフィクションにする創造力や、嫌な目に有っても「次こそは!」とメンタルを鍛えられる時や「可愛い」とか「かわいそう」とか感慨深くなる時とか経験したり…

    感情を揺さぶられ、自分も他人も愛せる教育…誰一人と残さない感覚。…当たり前の事が実は奇跡なのだとか…

    「考えるな、感じるんだ」

    規則より尊さや人の脆さ…気持ちを学ぶ学校が必要かもですね。…ハイレベルですが。

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