目に見えるもの、見えないもの

五月は、いい季節だと思う。緑が濃くなり、空気もあたたかくそれでいて風は、涼やかに流れている。

「気持ちのいい季節になったなあ。」
と思えるのは、生活や精神が安定していることの証拠だろうか、からだのあちこちに支障をきたしている事はまぎれもない事実だが、それほど重度の病ではないので、すべてが輝いて見える。

同じものを見ても、人によって感じ方は違ってくるし、同じ人間でも体調や心の在り方でずいぶん異なって見える。
若いころは、いい景色といわれるものを見ても、何も心を打つものはなく、

「景色を見るだけの観光旅行なんて意味ない。」
と、うそぶいていた記憶がある。

今も、紅葉や滝、巨岩を見てもさほど心は動かないが、ふとした生活の中で目に留まったものに釘付けになる瞬間がある。
いつも見ているはずの道に咲くスミレの花や、どこから来るかも知らない小さな野鳥などが、気になってしまったりする。

「自分も年をとったからなのか?」
と自分で自分に問いかけるが、そうでもない。

今まで見えなかったものが、だんだん見えてきた。というのが正解に近い。
飾らない、華美でない、人工的でないものに惹かれる。

だから、その辺に生えているオオイヌノフグリやカタバミなんかも好きだ。

観察しているとカタバミには、シジミチョウが集まってきている。

調べたら、シジミチョウの幼虫の食べる葉っぱらしい。

病気で外に出られなくなった時や、ケガをして歩けなくなった時など、今まで自由に出歩くことが普通と思っていたことに気づかされる。

「早くこれまでのように出かけたい、はしりたい。」
と、ベッドや部屋の中で思う。自分がこれまでにどれだけ幸せだったかがその時に分かる。

親のありがたみも、親が亡くなってからわかる。勉強の大切さも、学生でなくなってから、気づく。

たぶん、いのちのありがたさや大切さも、自分の臨終の前に考えるのだろう、それも切実な問題として。

「もう少し、こうしておくべきだった。」

と、死ぬ間際に後悔するのは、もったいない。だから、いまからでも、どこでも全力で生きるべきだと思う。

自然に生きている虫や鳥のように。

車の運転が乱暴な人や、すぐ文句を言う人など、世の中にはあまり見習わないほうがいい部類の人が、少なからず存在するが、その人たちは、まだ見えていない。何が大切なのかが。

自分の生活さえ保障されていれば、他人がどうであろうが構わないと思っている人も、大切なものが見えていない。

見えていないと、さらに悪い方に進んでしまうのでなおさら見えなくなる悪循環。
もっと、人のためになることをしないといけない。それも自然に、人の見えないところで。

哲学者カントは、自分の好きな人に親切にするということは「善」ではないという。人の見えないところで、良い事をするというのは、「善」じゃないかな?

本当の良い事を実践して、もっといろいろな事がよく見えるようになりたいと思う。
今日は何だかセンチメンタルな気分。

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