父のこと 母のこと

父が他界してもう20年になる。忘れないうちに、思い出せることを記録していこうと思っていたが、なかなかその気になれず、今日まで来てしまっている。

母も今年で卒寿をむかえる。これを機に、ブログで少しづつ思い出を記録していくのも悪くないと思う。

誕生秘話

わたしがこの世に生を受けたのは、東京の隅田産院という病院らしい。昔、赤ちゃんを取り違えた事件のあったところらしいが、さだかではない。

わたしが産まれて、父がわたしを初めて抱いた時、看護婦さんに何かしら言われて、真っ赤になったという話を母からだいぶ前に聞いたことがある。

別に看護婦さんが父、父をからかったわけでも、その人が美人だったからでもなく、赤ちゃんのあしの曲がり具合が自分とそっくりだったから。

わたしも父も、ひざから下が極端に曲がっている。いわゆる О脚である。だからいつもズボンをはいても曲がっているし、半ズボンだと、なおいっそう曲がり方が強調されてしまう。

これまでに、О脚でいいかな?と思ったのは、たった一度きりしかない。
オリンピックの女子マラソンで金メダルをとった選手の監督が
「О脚は強いんだよ、バネみたいになってるから。」
といっていたのを見たとき、その瞬間だけだね。

父は酒が好きでタバコも好きで、ギャンブルも好きだったから結婚するときに人から、「あの人はやめたほうがいい。」といわれていたそうだ。

母は、まじめでそういうことは一切せず、ずっとお屋敷のお手伝いさんとして働いていたから、お見合いもいい話がいっぱい来た。

10回以上お見合いをして、どれもぱっとしない、つまりトキメキがなかったらしい。
それが父とお見合いをして、付き合ううちに、住んでいた世界の違いにおどろき、純粋さにひかれたらしい。

結婚して間もないころ、父は仕事から帰ってきて、奥さんが家にいることを確認すると
「ああ、よかった。」
といっていた。
これは母から聞いた話。
暇なときには、鼻の穴に2本マッチ棒を入れて、どじょうすくいを踊ってくれたりした。
これも母から聞いた話。
つなぎとめるのに必死だったんだね。

タバコの香りは、父の匂い

ものごころつく頃から、父親の匂いは「たばこのにおい」だった。
とくに、手とか指とかは強烈な臭さだった。
吸っていたタバコの銘柄は「いこい」

今ではできないことだが、昭和の頃は子どもがお使いでタバコ屋に行っても、ちゃんと売ってくれた。
よくお使いに行かされて「いこい」を買ってきた。

何年かすると、銘柄が変わって「ピース」になった。
フィルターの付いていない両切りの「ピース」。
これは、子どもながらにいい匂いだったことを記憶している。
その後、缶に入ったピース、いわゆる「缶ピース」に変えていた。

これも缶を切るひと手間が楽しそうで、父は嬉しそうに缶のふたを回して切っていた。
開けたその瞬間、いい香りが拡がった。

景気のいい時には、シガリロに変わっていたこともあった。
ゲルベゾールというドイツ名のタバコで、ピースよりもさらに良い香りがした。
発がん性物質が含有されていたとかで、今は手に入らない。

わたしがパイプや葉巻、シガリロを好むのは、この香りの原体験があったからかもしれないと思う。

発明家であり、UFO研究者でもあった父

これも、子どもの頃、母から聞いた話。
父は、宇宙人を研究するグループに加わっていて、ときどきそこから手紙が届いていた。
よほど大切な手紙らしく、封筒が2重になっていて、表の差出人の名前は、宇宙人やUFOなどと関係のないような普通の名前だったらしい。
中を見せてはくれなかったらしいが、読んだら証拠が残らないように必ず燃やしていたという話。

わたしも一度だけ、その研究グループのところへ連れていかれて、人相?を見てもらった。
そこの代表が言うには、
「この子は、選ばれし子どもであるから、大規模な天災が起きたら、高いところに行って、手を天に掲げなさい。そうすると、光があらわれてこの子をUFOが助けてくれるから。」

この話を聞かされて、まんざら悪い気はしなかったが、どう考えても、変な宗教に近いね。
いま思うと。

父は、頭がよかったらしく中学までしか出ていなかったが、言葉や漢字、英語もよく知っていた。
まあ、印刷屋で働いていたからだろうけど。

よく聞いた自慢話は、将棋や囲碁がかなり強かったので、周りのなかまから「五倍半」といわれていたらしい。人の5.5倍の能力だということかな?

お前は、お母さん(母のこと)と自分とを足して2で割るから3倍半くらいかな?なんて馬鹿にされたこともあったけど、3倍なら結構いいよね。

父の働いていたのは、町工場みたいなところだから、「フーテンの寅さん」にでてくる人たちのような集まりだろうから、その中でちょっと優秀だったら「5倍半」になんか直ぐなれそうだけどね。

父は、自分に才能があったと錯覚していて、30代の頃、仕事を辞めて発明家になっていた。
特許申請して、その品物を売ってひと財産つくるという目論見だったらしいが、結局失敗した。

図面やら、これができたらどれだけいいかという話をたくさん聞いた。
その特許申請したものというのが、足に湯をかけてきれいにする装置。
ステンレスで出来ていて、風呂の出口についていて、人が乗るとスイッチが入り、ふろから上がる人の脚をきれいに流すという仕組み。

まだ銭湯がたくさんあったころだから、銭湯が東京に何件あって、一つにつき何千円儲かるから、、、なんて考えていたらしい。結局、経費の問題でできなかったのかな?
 

父の子どもの頃の話も、よく聞いた。
中でも痛快だったのは、戦争が終わって、アメリカ兵に戦車にのせてもらった話
会話も出来ない程、音と振動がすごかったらしい。

米軍の倉庫で船から荷物をはこぶ仕事では、運んでいる途中に疲労と睡眠不足と栄養失調とで、荷物と一緒にふ頭から海の中へまっさかさまに落ちた。

運よく助けられて事なきを得たが、助けてくれたのは黒人の兵隊だった。
黒人はとても親切だと父は話した。
毛布を貸してくれて、食べ物もくれたそうだ。
自分は子どもながらに、黒人は素晴らしいと思ったり、どんなものを食べたのかを想像したりした。

戦後、まだ食べ物がないころ、アメリカ軍の倉庫には驚くほど豊かな食材があったらしい。
父は、夜中にその倉庫に忍び込んで、食べ物を漁ったが、食料を持って出ることが知れると、その場で銃殺されるので、倉庫の奥に行って缶切りで缶詰を開けて、腹いっぱい食べて、何食わぬ顔で出てきたんだ。
と、缶を開けるまねをしながら話してくれた。
その缶の大きいこと。
スーパーなどで売っている桃やミカンの缶詰ではなく、業務用の缶の大きさ。
よく小学校の運動会で何着になったか、走った後にしゃがんで並ぶあの等賞旗の下についているやつ。
コンクリで固めてあるあの缶。

果物の缶だけでなく、コーンやコーンビーフなども盗み食いしたらしい。
だから、うちにはなぜか小さいころから、缶詰がたくさんあって、夕食後にミカンの缶詰を食べたことをよく覚えている。
だから今でも、缶詰が大好きである。

終戦前、もうアメリカの爆撃がはげしくなってきたころ、父は防空壕から防空壕への知らせを渡す伝令をやっていたと聞く。

ある日、走っていると突然、戦闘機が急降下してきて土産に爆弾を落としていった
たかが子どもに爆弾を一発をお見舞いするなんて、ずいぶん大人げない敵だけど、機体を軽くするために爆弾を落としたんじゃないかって言っていた。

もう駄目だと思った瞬間、爆弾は田んぼの中に落ちて命が助かった
もし、爆弾でなくて機関銃の掃射だったら、今の自分はこの世にいないんだと思うと、自分は選ばれた子?と勘違いしてしまうね。

父の弟は外交官

父の生家は、大空襲で焼けてしまってもうないが、かなりのお金持ちだったらしく、赤ちゃんの時の写真が残っている。
それを見ると、写真館で撮影されていることがわかるもので、今でも立派に写っている。

父の父、つまり私の父方の祖父は、明治生まれだが大学を出ていて、若くして東京の製紙会社の工場長になったという話を聞いた。
これは父も知らなかったかもしれない。父の姉から、父が亡くなった時に聞いた話だ。

工場の中で事故があってで重いものに挟まれたことが原因で40歳くらいで亡くなったらしい。
だから父は「自分は40までしか生きないから、、、。」とよく言っていた。
自分の父親が亡くなった年齢を聞いていたのかもしれない。

5歳くらいで、父を亡くし、おばあちゃんは生活に困って、祖父の財産を二束三文で骨董品屋に売ってしまったとおばさんは嘆いていた。

父の父は趣味人で、骨董や書画にも目が効いた。
形見としておじいちゃんが使った硯をもらって使っていたが、真ん中が異様にすり減っていて、恥ずかしかった。ふちに模様も付いていたが、きっと高価な硯だったのかもしれない。
小学生だった自分は早くその硯が割れてしまわないかと乱暴に扱ったが、周りが少し欠けたくらいだった。

幼くして父親に先立たれた父は、姉と一緒に親せきに預けられてしまった。

初めは世田谷に住む金持ちの家だったらしいが、父親に死なれ、母親に見捨てられた子供が真っ直ぐな気持ちでいられるわけがないから、悪さをさんざんやった。

寝小便もしていたらしい。屋根からそのうちの主に向かって小便をかけたりしたので、だんだんに貧しい家にたらいまわしにされてしまった。
いい子でいれば学校にも行けたのにね。

父の弟は母に連れられて、再婚先の家に行った。
そこで、学校にも行き、外交官になった。
3人の子どもをどうして連れて行ってくれなかったのかなと思うけど、できなかったみたい。

父の父は、2度目の結婚で、最初の奥さんは学校を出た教養のある人だったと聞く。
子どもも生まれたが、スペイン風邪?で二人とも失い、悲しみに暮れていて、次は体の丈夫な人がいいと思って、千葉の田舎の農家の娘を嫁にしたと聞いた。

父の父の母、つまりわたしから見ると曾祖母は、お妾さんだったらしく、お妾さんを囲ってくれたのは、由緒ある伝統芸能の家の当主だったとか。

お金をかけて囲ってくれたということはずいぶん美しい人だったんだろうと想像がつくね。

人の歴史は、悲しいことも多いけど、その中で、命はつながっているんだなと思います。
母の事は、また次回に。


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父のこと 母のこと” に対して2件のコメントがあります。

  1. BLACK EYE より:

    タバコの匂いは父のニオイ…確かに(笑)

    私が子供の頃はジュースにする為のトマトを畑で栽培してたので、親父やかーちゃんからはトマトの青臭さも匂ってましたww

    昔のトマトは…中身がとろっとしてジューシーで青臭く、チカラ強かったです。…今のトマトなど、弱々しくムカつくぐらいにおとなしい…おっとっと。

    …母は、自分が高校三年の時に交通事故ののちに闘病生活で亡くなりましたが…今思えば凄くかわいい心の持ち主で、ひょーきんでシャイで決して人前では前に出ることなく、地下アイドルみたいな性格な人でした(笑)

    高校ニ年の冬の時に「他の同級生達はカッコいいコート着てるから、お前にも買ってあげるね(笑)」って言ってましたが、とうとう買って貰えずじまいになっちゃいましたww

    親父も…支えてくれる人が居なくなり、無念の中過ごしたかもだけど、…思い出はいつまでも新鮮なトマト同様に青臭いです(笑)

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